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舞鶴鎮守府別館からの雑感

鎮守府別館から個人的な雑感を述べます。

軍事研究について書き忘れていたことを追記

先日書いた記事に追加して書いていこうと思います。

aozoramakoto.hatenablog.com

というのも書くのを忘れていたことが何件かあって、それについても触れておきたいなと思ったからです。ですが、今回は以前の様にしっかりと軸が定まった内容ではないため、色々ずれまくるのでそのあたりはご了承ください。

因みに今回は日本学術会議の安全保障と学術に関する検討委員会の審議経過中間とりまとめを読んでいます。

http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/anzenhosyo/pdf23/anzenhosyo-siryo8-kaitei1.pdf

今までの記事では読んでいませんでした。正直前回、前々回の記事はTwitter上で起きたことに対して感じたことを纏めただけなので。勿論議事録全てを読むのが好ましいのでしょうが、流石にそこまで根気が持たなかったのでこれで勘弁してください。(根気が続いたときに読みます)

取り敢えず、中間とりまとめから読んでみようか

 まず、以前の記事で触れておかなかったのでこれから書きたいと思います。というか、今回の記事書いたのはこれについて触れるためだけだったりします。

今回、日本学術会議がどのくらいのレベルで軍事研究について規制したりするのかはよく分かりませんが、軍事研究をしても罰則を与えたりという事は今までの事例を見ると無さそうです。

http://mainichi.jp/articles/20170208/ddm/003/040/033000c

上の記事で、実際に米軍資金が流入しても今でも教授などのポストにとどまっているという事は実際そうだと考えられます。(毎日新聞なので、会員にならなければ大部分は読めません)

恐らく、軍事研究を拒否する採択がされたとして、その後に今回の防衛省の制度に参加したとしても何ら不利益を被ることは無いのではいかと思います。(ただし、大学当局や教授会が独自制裁を行う可能性は否定できません。)しいて言えば、軍事研究に反対する勢力から嫌がらせを受けたり、抗議の集団がやってくる程度でしょうか。

さて、中間報告を読んでみましょう。こんな文章があります。

① 学問の自由とは、真理の探究を主目的とする学術研究の自由であり、学術研究が、さまざまな権威の中でもとりわけ政府によって制約されたり政府に動員されたりしがちで あるという歴史的な経験をふまえつつ、学術研究の自主性・自律性を担保する必要がある。

学問の自由は政府によって制限されてはならない。まさしくその通りだと思います。しかし、次の文章は残念ながら、学問の自由とは完全に真逆を行くものです。

② 研究の適切性について、学術的な蓄積にもとづいて科学者コミュニティが規範を定め、 コミュニティとして自己規律を行うことは、個々の研究者の学問の自由を侵すものではない。

③ 人権・平和・福祉・環境などの普遍的な価値に照らして研究の適切性を判断し、自己規律を行うことを通じて、それらの価値の実現を図ることは、科学者コミュニティの責務である。

さて、これのどこが問題なのかといいますと、3つあります。一つ目と二つ目は私が最初に出した私の記事の中に書かれています。「誰が自由を制限するか?」と「私たち全員が同じ倫理と道徳を持てるのか?」という問題です。そして、今回のメインは三つ目です。

自主規制の恐ろしさ

三つ目の問題は特定のコミュニティが自己規律と称して、自主規制を行うことにより現場が委縮してしまう事です。自主規制は自分が所属するコミュニティによって、または自分自身によって行うため批判すべき対象が曖昧になりがちです。そのため、政府が行うような自由の規制よりも遥かに危険でたちが悪いものです。

特定の者で構成されたコミュニティというのは治外法権的な状態になりやすく身内のノリや和が重視されやすいため、自主的な意思をなかなか示すことができません。仮に示したとしても圧力をかけられやすい立場に陥りやすいのです。この様な中で自主規制などの基準を決めてしまう事は学問の自由を脅かすことそのものに繋がります。

お前は考え過ぎだって?そんなことはありません。学問の自由ではないですが、表現の自由の分野でそれが既に起きています。知っている人は知っていると思いますが、都条例によって性表現の規制がなされた時に、出版社から著者に対して表現を控えるようにとの連絡が言った事例がありました。また、書店が取り扱いを止めたりといった事もありました。この様な自主規制による事実上の禁止なんてことが学問の自由の分野においても起きないとは言い切れないのです。

米軍に活用されるから倫理規定を作れ、とは?

ここからは別の話題です。軍事研究に関する記事を見て回っていた時、こんな記事を発見してしまいました。

米軍マネー、基礎研究の名目だが 学術界に9億円:朝日新聞デジタル

タイトルの通り、米軍のお金が学術界に流れていて問題だと叫んでいるような記事です。これだけならいつもの朝日新聞の記事なのですが途中で出てきた文章にびっくりしてしまいました。勿論悪い意味で。

名古屋大の池内了名誉教授は「成果はすべてではないにせよ、米軍に活用されると考えるべきだ。実戦で装備化され、日本の研究者は制御できない。学術会議だけでなく、大学など各組織が、助成を受けないと明記した倫理規定を作るべきだ」と話す。

池内了名誉教授は軍事研究反対の第一人者とも言うべき人で、軍事研究に関する話題になると必ず出てきたり、よく反対する団体の講演や声明などにも名を連ねています。

さて、この文章のどこが問題なのかといいますと、米軍が活用されるから問題だといっている点です。ですがこれは非常に不可解です。というのも、おそらく米軍のことですから、有用な基礎研究や技術については常日頃チェックしていることでしょう。当然基礎研究なのですから、論文やデータなどについても公開の原則で多数公開されているはずです。倫理規定を作って米軍の資金を受け取らなくても、研究をすればその論文やデータは公開されるでしょう。公開されるという事はいずれ米軍はその内容を元に自分の装備に活用すると思います。そう考えれば「米軍に研究成果を活用させない!」ということのおかしさがよく分かると思います。倫理規定なんてものが役に立たないのは自明の理でしょう。

究極的に突き詰めて「米軍に成果を活用させない」なんてことを言い始めれば、研究成果は公表せず、秘密研究で地下で行うしかなくなるのではないのでしょうか。それこそ池内名誉教授はじめ、軍事研究に反対する勢力が主張する学問の自由の擁護や公開の原則に反することではないのでしょうか。

最後に

ここまで色々な論点で書いてきましたが、私は自由を擁護する立場に立って記事を書いているつもりです。一方の軍事研究に反対する立場が守ろうとしているのは何なのでしょうか?どうもそれがイマイチ見えてきません。仮に平和だとすれば、平和と自由は対立するものではありませんし、対立したとしてもその両方を擁護すべきでしょう。もし今後軍事研究に対する声明を出すなら(きっと出すと思いますが)、そこの部分についてもっと議論を深めた声明などを出していって欲しいと思います。

※追記

引用についてですが、当ブログの引用は引用の範囲を超えないように細心の注意を払って書いています。しかし、もし問題があった場合は私のTwitterアカウントやコメント欄でご指摘お願いします。